ファミスタ87が好きだった

「くどう」がいちばん使えたから。
小学生のころ、名古屋電気の工藤公康ノーヒットノーランをやってのけたのをテレビ越しに見て、あんなふうになりたいと思った。
右手でペンを、箸を持ち、ドッジボールも右手で投げる僕は、なぜか野球だけ工藤と同じ左投げ左打ちだった。誕生日がたった2日ちがい、僕の出産予定日と同じ5月5日というのにも親近感を持った。
そして僕は、全く運動ができないくせに、中学・高校の6年間、硬式野球部にいた。最初は何人かいた全く運動ができない仲間は、1か月もしないうちにみんないなくなった。学年が上がり組替えがあるたびに、いちいちクラスメートから野球部にいることを驚かれた。
中学のうちは、3校くらいとのリーグ戦があるだけだった。出られない僕には全く関係なかったけど。
お荷物の部員は、いつの間にか十把一絡げで外野の補欠にされていた。6年間我慢すれば、最後の大会の最後の試合、お情けで代打に出してもらえる。先輩を見れば、それはわかっていた。
4年の時、監督は歴代で最も怖いと言われていたOBのKさんだった。そのKさんにピッチャーをやりたいと直訴してみた。案の定、やめとけみたいな返答。が、必死に食い下がって許可はもらった。あとはやるだけだ。
バッティングは捨てた。運動神経に恵まれた奴ら相手に、攻守両方やって勝てるわけない――。
結局、最後の夏も背番号11に終わった。うちの学年は11人だった。都立H工業との練習試合で、5回0点に抑えたのが僕の野球人生の最大の見せ場だった。
最後の夏、東東京の2回戦、神宮球場。僕は、後輩を引き連れ、ずっとブルペンにいた。うちの高校の敗戦がまぢかに迫ると、ベンチに呼び戻された。背番号10の奴は既に代打で起用されていた。
「次、代打行くぞ」
投げることに賭けて、3年間ひたすらやってきたのに……。
「代打じゃなくて、一人でも、一球でもいいから投げさせてください」
「……でも、もう代打以外、出るチャンスはないぞ」
「代打で出ても、意味がありません」
もう一度、ブルペンに戻った。ここが僕の場所だ。
ほどなくして、ゲームは終わった。僕の知る限り、上にも下にも、全く大会に出られなかった部員はひとりもいない。
でも、後悔はしていない。自分の筋は通したから。できる限りのことはやったから。
っていうかね、決して得意とは言えないものに真剣に取り組む姿って心を打つじゃないですか。歌もダンスもめちゃめちゃ頑張ってるよ、こんこん。
いや、僕の姿を見て心打たれた人は皆無なんですけどね。
それに、もし運動部に入らず、ギター部とか生物部とかで6年間を過ごしてたら、絶対に1500メートルを5分半で走るなんてできなかったもん。